かなり前の話ですが、ベルギーのフランドルに住む映画監督があるとき、アントワープの大聖堂でルーベンスの絵を見上げて涙を流す日本人の姿をみたそうです。そして、その姿を見て、その監督は「何で?」と思ったそうです。
フランドルって英語読みではフランダースです。そうです、『フランダースの犬』の舞台ですね。
『フランダースの犬』に泣く日本人
ルーベンスの絵を見上げて泣いていた日本人は、『フランダースの犬』の主人公、ネロを思って泣いてしまったんですね。
あの、かつての世界名作劇場のアニメ『フランダースの犬』のラスト、ルーベンスの絵の前で天に召されるネロと愛犬パトラッシュのシーンはあまりに有名で、一定以上の歳のひとはみんな知っているし、みんな泣いたりします。
『フランダースの犬』に泣かない地元のひと
可哀想すぎて涙を流す日本人に、なぜこの映画監督は「何で?」って思ちゃったんでしょう。
実は、ヨーロッパでは『フランダースの犬』という話は、「負け犬の死」として評価されているらしいんですね。「負け犬の死」て!ヨーロッパの人も結構ドライですね。
しかし、それも知っている人が言うことで、そもそも地元ベルギーやヨーロッパではこの物語の知名度はさほど高くないそうです。
日本では菊池寛が原作を翻訳しそれがアニメ化されたことで有名になったのですが、たまたまだったんですね。
ちなみには現地にはネロとパトラッシュの銅像が建ってたりするんですが、それも大挙して泣きにくる日本人にアピールするために建てたそうですよ。
日本人が『フランダースの犬』に感動するワケは「滅びの美学」?
で、この映画監督、『フランダースの犬』を検証するドキュメンタリー映画を撮ったのです。その映画は世界6か国で計100人を超えるインタビューをして完成し、得た結論は、「日本人の“滅びの美学”」とのこと。
なるほど、日本人は滅びゆく儚い存在にちょっと過敏に反応しがちですよね。でも、それが理由なんでしょうか。何か違う気がする。
ていうか、サンプルが100人て少なすぎるやろ。
「滅びの美学」ではなく…
ぼくは、日本人が『フランダースの犬』に感動するのは、 “滅びの美学”というより“判官贔屓”じゃないのかと思うのです。
日本の歴史でいえば“滅びの美学”は松永久秀、“判官贔屓”はそのものスバリ、源義経でしょう。
松永久秀は戦国時代の人物で、織田信長を裏切って信長が欲しがってた茶器「平蜘蛛」に爆薬を仕込んで爆死した人物です。「お前みたいなヤツに大事な平蜘蛛をやるくらいなら爆発させて俺も死ぬ!」というわけですね。自分の信念と大事なもののために死を選んだという点で、これは「滅びの美学」と言っていいと思います。
源義経は「判官贔屓」の、正に語源となった人ですね。散々頑張って源氏を勝利に導いたのに兄の源頼朝に殺されちゃってかわいそう、だから一般の民衆たちは源義経を贔屓するんだということですね。
本人たちの人となりや当時の情勢を考えれば異論もあるでしょうが、大まかにいえばそういうカンジです。
『フランダースの犬』は日本人に合っていた
おそらく、西洋に“判官贔屓”みたいな考え方は無いんでしょう。逆に「自分が評価されないのは自分が至らないからだ」「あの歳なら自立してしかるべきだ」 と考えているから「負け犬の死」という評価が出てくるんだと思います。
そして、日本人にとっては『フランダースの犬』はあのアニメであり、“判官贔屓”を発揮したアニメの演出が印象的で、それが日本人にハマったんでしょうね。日本人にはMっ気が多分にあるってだけの話なんでしょう。
検証映画のサンプル100人というのも少なすぎですし、そもそも知名度が違うのであまり信憑性は感じない話なのですが、日本人と西洋人の思考の違いがわかる話ではあります。
ちなみにぼくは、『フランダースの犬』のラストでは1滴も涙を流さないけども、『あらいぐまラスカル』のラストではワンワン泣きます。