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関ヶ原合戦後~大阪の陣までの徳川家康の気持ちを書いてみた

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いきなりスミマセンみなさん、関ケ原は好きですか?ぼくは大好きです。

豊臣秀吉没後から関ヶ原合戦前までの徳川家康の神がかり的な政治・謀略によって関ヶ原合戦は徳川方(東軍)が勝利をおさめました。

Tokugawa Ieyasu2.JPG
By 狩野探幽 - 大阪城天守閣, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=9558314

その家康の動きはかなり面白いのですが、関ヶ原から家康が豊臣家を滅ぼすまで(いわゆる大坂の陣)の家康の政治的な動きもかなり面白いので、この間のことを家康視点で書いてみます。

関ヶ原合戦後~大坂の陣まで

関ヶ原勝利!

1600年9月15日、家康は東軍を率いて関ヶ原にて石田三成の西軍に勝利を収めました。

しかし、この戦いはあくまでも豊臣家の家臣同士の争い(家康が豊臣秀頼の名を受けて逆臣を討つという名目がありました)であり、そのまま一気に家康が天下を取ってしまうのは、出来なくはないけども後のことを考えると難しいことでした。

「あー疲れた。金吾(小早川秀秋)め、モタモタしおってからに…。さて、ここが始まりや。しばらくは大老として大人しくして基盤を固め、豊臣家を孤立させていこか。秀頼はどうせボンボンだから何もできんやろ。それから滅ぼしてやるか、大人しゅうしとったら一大名にしたるかや」

征夷大将軍

1603年、家康は征夷大将軍に任命されます。このことを当然豊臣家は不審に思います。家康はそれを見越しているかのように孫の千姫を秀頼の妻として嫁がせます。すっかり素直に懐柔される豊臣家の人たち。

「家康は秀吉の遺言を守ってる!豊臣家を大事に思ってくれてる」とか、お人よしにもほどがありますね。

「どや!ワシが征夷大将軍や!大坂はザワついとるやろ。しかし、まだやな。今豊臣になんかしたら加藤(清正)やら福島(正則)やらがうるさいやろしな。せや!千姫を大坂にやろう。アホばっかやから安心するやろ」

将軍世襲

1605年、家康は征夷大将軍の職を辞して、息子の秀忠に譲ります。「は?一代限りちゃうん?ずっと将軍は徳川ってこと?」とか言って、当然豊臣家はザワつきます。しかし、秀頼を右大臣に昇格させるという家康の手にまたコロッと転がって安心しちゃいます。

しかし、秀忠の任命祝いに秀頼に上京を促されたときはさすがに淀殿の反対で実行しませんでした。

「どや!徳川が代々征夷大将軍職について実際の天下を回すんじゃ!そろそろか?いや、相手はボンボンや、あせることはない。ちょっと位をあげてみたらメッチャ喜んどんで!アホや!しかしさすがにお祝いには来んかったな」

二条城の会見

1611年、家康は秀頼に二条城での会見を提案します。淀殿が反対しまくりましたが、徳川とコトを構えるのはマズいと思った加藤清正、浅野行長が「絶対守る」と約束してなんとか実現しました。

「アカン!秀頼はただのボンボンちゃうやんけ!アレが成長したらマズいで…。徳川の世は続かんで。あっちが成長するたびにこっちは老いていくだけや…。これは急がなアカンな…。ワシの目の黒いウチに決着を付けなアカン…」

方広寺鐘銘事件

あせった家康は豊臣家に対してイチャモンをつけます。豊臣家が再建した方広寺の鐘の銘文『国家安康』『君臣豊楽』に対して言いがかりをつけるのです。

『国家安康』は家康の名前を分断して呪っている、『君臣豊楽』は豊臣が世をひっくり返して(臣豊)君となり世を楽しむと書いてあるとか、正にイチャモンです。

「もうなんでもええわ!急がなワシが死ぬ。崇伝~天海~、なんか豊臣がワシを怒らせたと世間に言えるイチャモン考えて~」

 

二つの態度

家康を怒らせるのは得策ではないと悟っている大坂の片桐且元は弁明のため家康のいる駿府に向かいました。が、家康にはまったく会ってもらえず、本多正純に「ウチの、めっちゃ怒ってんで。豊臣家は大坂を出たほうがいいんちゃう?」と言われ、戦の回避のために大坂にそのことを持ち帰りました。

「且元なんかちょっと脅かしたらイッパツやがな。ヤツをビビらせたら大げさに伝えよるやろ」

しかし、且元が大坂に帰っていくのと前後して、淀殿が遣わした大蔵卿局が駿府にやってきます(この時点で大坂は一枚岩ではないんですよね…)。家康はこちらにはちゃんと会い「ワシは秀頼さまのことを何よりも案じている。鐘の件は家臣が騒いでるだけでワシも困っている」と伝えました。大蔵卿局は大喜びして大坂に帰りました。

「ラッキー!淀殿からも使者がきたがな。大坂割れとんな…。ということは大蔵卿局ちゃんをもてなして嬉しい報告をさせたら且元が大坂で浮くな…。我ながらエエ考えやで…」

疑惑の目

二つの正反対の家康からの回答に大坂は混乱しますが、いい答えを持ってきた大蔵卿局の報告を信用します(信じたかったのでしょう)。そして且元は「豊臣家に不利なことばっかり言って、裏切る気ちゃうか」とか言われ出しちゃいます。

「よっしゃ!思った通りにハマっとるでアイツら!アホや!もうひとつや…、且元、もうひとつ行動するんや…いけ、いけ、いけ且元…」

且元退去

裏切者の名を受けようとも、且元は上層部(主に淀殿)を必死に説きます。しかし上層部(淀殿!)は且元の意見を聞き入れようとはまったくしませんし、ついには且元暗殺計画まで噂されるようになり、やむなく且元は居城の茨木城まで退去することになりました。

「よっしゃ!これで整った。ワシが信頼する且元を追い出すとはどういう了見や!?というテイでいこう。よっしゃ!出陣じゃ!」

最後に

こうして、歴史は大坂の陣に向かって流れていくことになります。

ていうか、場面場面で豊臣家が墓穴を掘っていったのがおわかりでしょう。家康はそれを巧みに利用して、あせりつつも豊臣を滅ぼすために手を打って行ったのでした。

ね?面白くなーい?