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直江兼続の「直江状」を関西風に訳してみた

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何かと話題の戦国武将、直江兼続サンの「愛」という兜の立物について書いた記事は読んでいただけました?

今回またまた直江兼続サン関連のことを書こうと思って、「直江状」なんかはどうでしょう?

「直江状」って?

直江状(なおえじょう)は、慶長5年(1600年)に上杉景勝の家老・直江兼続が、徳川家康の命を受けて上杉家との交渉に当たっていた西笑承兌に送った書簡。関ヶ原の戦いのきっかけとなる会津征伐を家康に決意させたとされるが、偽書説もある。

引用元:直江状 - Wikipedia

徳川家康から「お前らに謀反の噂があるから上洛して説明してちょ」というお手紙をもらった上杉家を代表して兼続が返答した書簡が「直江状」なんですが、これがもう無礼な内容でして、直江兼続が家康を怒らせ、挑発するために書いたとされています。

「直江状」関西バージョン

そんな「直江状」を、関西弁風に訳してみようと思いますよ。

直江兼続 (Truth In History 15)

一、当国の儀其元に於て種々雑説申すに付、内府様御不審の由、尤も余儀なき儀に候、併して京・伏見の間に於てさへ、色々の沙汰止む時なく候、況んや遠国の景勝弱輩と云ひ、似合いたる雑説と存じ候、苦しからざる儀に候、尊慮易かるべく候、定て連々聞召さるべく候事。

ワシらの国(会津)について何やかんや噂が流れとって内府様(家康)がワシらの謀反を疑ってるのはかなわんなぁ。でも京都と伏見の間ですらいろんな噂が流れるもんやし、ましてや、遠くにおるワシらの景勝は若輩モンでもあるし、そういう噂が出てくるのはしゃーないやん。だから心配せんとってや。まぁちょっと安心して色々聞いてやってくれや。

 

一、景勝上洛延引に付何かと申廻り候由不審に候、去々年国替程なく上洛、去年九月下国、当年正月時分上洛申され候ては、何の間に仕置等申付らるべく候、就中当国は雪国にて十月より三月迄は何事も罷成らず候間、当国の案内者に御尋ねあるべく候、然らば何者が景勝逆心具に存じ候て申成し候と推量せしめ候事。

景勝の上洛が遅れてるから怪しいとか言うとるけど、一昨年いきなり越後から会津に国替えされてすぐに上洛したやん。ほんで9月に会津に帰ったとこやで。まーた正月に上洛するとかなったら、国のこと何にもできませんやん。しかもワシらんとこは雪国で10月から3月は何もできへんねん。詳しいヤツに聞いてみ?そしたら景勝が怪しいことなんかないって一発でわかると思うわ。

 

一、景勝別心無きに於ては誓詞を以てなりとも申さるべき由、去年以来数通の起請文反古になり候由、重て入らざる事。

景勝に謀反するつもりがないことはわざわざ誓詞を書かんでもちゃんと言うたるわ。去年から何や知らんけど数通の起請分が反故にされとるし、またわざわざ書かんでもええんちゃうか。

 

一、太閤以来景勝律儀の仁と思召し候由、今以て別儀あるべからず候、世上の朝変暮化には相違候事。

太閤(秀吉)が生きとるときから景勝は律儀なヤツって思っとるんやったら、今さら疑わんでもええやんか。世の中はめっちゃ変化してるのは違いあれへんけど。

 

一、景勝心中毛頭別心これなく候へども、讒人の申成し御糾明なく、逆心と思召す処是非に及ばず候、兼て又御等閑なき様に候はば、讒者御引合せ是非御尋ね然るべく候、左様これなく候内府様御表裏と存ずべく候事。

景勝にははむかう心なんてあらへんけど、讒言してるヤツを調べもしないで逆心があるとか言うんやったら別にええで。元どおりになって欲しいんやったら、讒言したヤツを調べなアカンやろ。それをせえへんのやったら何か内府様に裏がありそうやなー。

 

一、北国肥前殿の儀思召のままに仰付られ候、御威光浅からざる事。

前田利長はもう飼いならしたみたいやな。はいはい、スゴい威光やわ。

 

一、増右・大刑少御出頭の由委細承り及び候、珍重に候、自然用所の儀候へば申越すべく候、榊式太は景勝表向の取次にて候、然らば景勝逆心歴然に候へば、一往御意見に及んでこその筋目、内府様御為にも罷成るべく候処に、左様の分別こそ存届けず候へども、讒人の堀監物奏者を仕られ、種々の才覚を以て妨げ申さるべき事にはこれなく候(や)、忠信か、佞心か、御分別次第重て頼入るべく候事。

増田長盛と大谷吉継は出世したらしいやん。めでたいことやね。何か用があったらこっちから言うから。榊原康政が景勝の取次やんか。だったらもしホンマに景勝に逆心があったら、康政からそっちに意見がいくやろ。そういう筋が通っててこそ内府様の為にもなるのに、それをせんで康政は讒言した堀直政とグルになって色々と景勝の妨害をしてくれてるで。康政が忠臣か、奸臣か、よう見させてもらってから頼むことになるわな。

 

一、第一雑説ゆえ上洛延引候御断り、右に申宣べる如に候事。

いろんな噂は上洛が遅れてるから出てるんやろうけど、今まで書いたとおりやから。

 

一、第二武具集候こと、上方の武士は今焼・炭取・瓢べ以下人たらし道具御所持候、田舎武士は鉄砲弓箭の道具支度申し候、其国々の風俗と思召し御不審あるまじく候、不似合の道具を用意申され候へば、景勝不届の分際何程の事これあるべく候や、天下に不似合の御沙汰と存じ候事。

武器集めとるやんとか言うとるけど、そりゃ上方の武士は何や色んな茶器なんかの人たらしの道具を持っとるみたいやけど、ワシら田舎武士は鉄砲や弓矢を持っとくのがお国柄やと思って、そんなに怪しむなや。景勝が不届きで武具を揃えてるからって何てこたないやろ。それこそ天下に不似合ちゃうか。

 

一、第三道作り、船橋申付られ、往還の煩なきようにと存ぜらるるは、国を持たるる役に候条此の如くに候、越国に於ても舟橋道作り候、然らば端々残ってこれあるべく候、淵底堀監物存ずべく候、当国へ罷り移られての仕置にこれなきことに候、本国と云ひ、久太郎踏みつぶし候に何の手間入るべく候や、道作までにも行立たず候、景勝領分会津の儀は申すに及ばず、上野・下野・岩城・相馬・正宗領・最上・由利・仙北に相境へ、何れも道作同前に候、自余の衆は 何とも申されず候、堀監物ばかり道作に畏れ候て、色々申鳴らし候、よくよく弓箭を知らざる無分別者と思召さるべく候、縦とへ他国へ罷出で候とも、一方にて(こそ)景勝相当の出勢罷成るべく候へ、中々是非に及ばざるうつけ者と存じ候、景勝領分道作申付くる体たらく、江戸より切々御使者白河口の体御見分為すべく候、その外奥筋へも御使者上下致し候条、御尋ね尤もに候、御不審候はば御使者下され、所々境目を御見させ(候はば)、合点参るべく候事。

道とか橋とか作って交通の便を良くしてるって、そんなん国を持ってる者として当然やろ。越後でも橋や道は作ったけど、それは会津に来てからじゃないことは堀直政も知っとるやろ。越後は上杉の本国やから、堀秀治を踏みつぶすのにわざわざ道を作らんでもできるんじゃ。会津に来てからは言うまでもなく色んな場所と隣接しとるし、どれとの間にも道は作っとる。道作っとるとかいってビビって騒いでるのは堀秀治だけやし、ヤツは戦のことを知らんヤツやん。どんだけ道を作っても、景勝が動かす軍勢はひとつだけやのに、めっちゃアホや。江戸からの御使者様は白河から奥へ行ってるから、もし疑うんやったら御使者様を寄越して色々見させたら納得できるやろ。

 

一、景勝事当年三月謙信追善に相当り候間、左様の隙を明け、夏中御見舞の為上洛仕らる べく内存に候、武具以下国の覚、仕置の為に候間、在国中きっと相調い候様にと用意申され 候処、増右・大刑少より御使者申分され(候)は、景勝逆心不穏便に候間、別心なきに於ては上洛尤もの由、内府様御内証の由、迚も内府様御等間なく候はば、讒人申分有らまし仰せ越され、きっと御糾明候てこそ御懇切の験したるべき処に、意趣逆心なしと申唱へ候間、別心なきに於ては上洛候へなどと、乳呑子の会釈、是非に及ばず候、昨日まで逆心企てる者も、其行はずれ候へば、知らぬ顔にて上洛仕り、或は縁辺、或は新知行など取り、不足を顧みざる人と交り仕り候当世風は、景勝身上には不相応に候、心中別心なく候へども、逆心天下にその隠れなく候、妄りに上洛、累代弓箭の覚まで失い候条、讒人引合御糾明これなくんば、上洛罷成るまじく候、右の趣景勝理か否か、尊慮過すべからず候、就中景勝家中藤田能登守と申す者、七月半ばに当国を引切り、江戸へ罷移り、それより上洛候、万事は知れ申すべく候、景勝罷違い候か、内府様御表裏か、世上御沙汰次第に候事。

三月は上杉謙信の追善供養やから、景勝はそのときに暑中見舞を兼ねて上洛するみたいやで。武具を揃えたり国のことは在国中にやろうとしとったら増田長盛と大谷吉継からの使者がきて、景勝は謀反を起こすとかいう噂があるから、そうやなかったら上洛しろって伝えてきよった。でも讒言したヤツの言い分をこっちに教えた上で、しっかり調べたらワシら悪くないのはわかるやろ。悪くないのに言うとるのに、悪くないなら上洛しろとか、そんなん赤ん坊の言い分、ハナシにならんわ。昨日まで逆心持っとるヤツが上洛さえすれば褒美が色々もらえるような風潮は、景勝には合いませんわ。逆心がないのに逆心があるとか言われてる中上洛したら、上杉家の弓矢の誇りがなくなってまうやん。だから、讒言したヤツを引き合わせて問いただすことがなかったら上洛なんてできへんのじゃ。このことは景勝の方が正しいやろ。ウチの藤田信吉が7月なかばにウチを出奔して江戸にいってそこから上洛したことはみんな知っとる。景勝が間違ってるか、内府様に裏があるのか、世間はどう見るやろなあ。

 

一、千言万句も入らず候、景勝毛頭別心これなく候、上洛の儀は罷成らざる様に御仕掛け候条、是非に及ばず候、内府様御分別次第上洛申さるべく候、たとえこのまま在国申され候とも、太閤様御置目に相背き、数通の起請文反故になり、御幼少の秀頼様へ首尾なく仕られ(なば)、此方より手出し候て天下の主になられ候ても、悪人の名逃れず候条、末代の恥辱と為すべく候、此処の遠慮なく此事を仕られ候や、御心易かるべく候、但し讒人の儀を思召し、不義の 御扱に於ては是非に及ばず候間、誓言も堅約も入るまじき事。

言うまでもないけど、景勝に逆心なんかまったくありまへん。でも上洛できへんように仕組まれてるならしゃあないな。内府様がいうように上洛せなアカンのは分かってるねんで。このまま上洛せんで太閤様の意思に背き、起請文を反故にし、秀頼様をないがしろにしてたら、こっちから兵を出して天下をとったとしても悪名は避けられへんし末代までの恥や。そうやって考えないわけちゃうから、安心せえや。でも讒言したヤツを信用して、不義の扱いを受けるやったらしゃあない。誓言も約束もいらんわ。

 

一、爰許に於て景勝逆心と申唱え候間、燐国に於て、会津働とて触れ廻り、或は人数、或は兵粮を支度候へども、無分別者の仕事に候条、聞くも入らず候事。

景勝に逆心があるとか言ったり、隣国で会津が攻めてくるとか言いふらして軍備をしてるのはアホやん。そんなん聞くのもしょーもない。

 

一、内府様へ使者を以てなりとも申宣ぶべく候へども、燐国より讒人打ち詰め種々申成し、家中よりも藤田能登守引切候条、表裏第一の御沙汰あるべく候事、右条々御糾明なくんば申上られまじき由に存じ候、全く疎意なく通じ、折ふし御取成し、我らに於て畏入るべきこと。

内府様に使者を出して申し開きでもしたらええんやろうけど、隣国から讒言があって、ウチから藤田信吉も出奔してる状況やから、どうせ疑っとんねやろ。そこに使者なんかだしたら表裏があるって噂されてまうわ。だから、讒言したヤツを調べてくれな釈明もできひん。そいつらの取り調べするんならワシらも従うがな。

 

一、何事も遠国ながら校量仕り候有様も、嘘のように罷成り候、申すまでもなく候へども、御目にかけられ候上申入れ候、天下に於て黒白御存知の儀に候間、仰越され候へば実儀と存ずべく候、御心安きまま、むさと書き進じ候、慮外少なからず候へども、愚慮申述べ候、尊慮を得べきためその憚りを顧みず候由、侍者奏達、恐惶謹言。

遠国やから推量しながらいうけど、ありのままに聞いてや。あんまりに情けないことやから、本当のこともウソみたいになるんや。言うまでもないけど、この手紙は見てくれるっていうから、真実を書かせてもらったで。ちょっとキッツいことも言ったけど、わかって欲しくてはばかりなく書かせてもうたで。

※本文については「直江状 - Wikipedia」より引用

最後に

これは何でしょう。何でぼくはこんなことを書いたんでしょう。でも、面白かったわぁ。ぶっちゃけ、良くわかんなくて前後から見て意味を取ったり誤魔化したりしてるところもあるけど許して。

その後のことを書くと、この「直江状」をもって家康は会津討伐を決心して会津に向かい、その途中で石田三成が近畿で蜂起して、歴史は関ケ原に向かっていくわけです。

そういう意味では、この「直江状」は日本の歴史を動かす重要なアイテムだったんですね。

現存してなくて、本当にあったのかどうかも疑う声もあるにはあるけど。